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NY到着の記事

2012年3月14日水曜日

相馬先生

バトラー図書館のArhiveでは、問合せにきめ細かく対応してもらい、効率的に仕事ができた。相馬先生の2年目の住所が判明。少なくとも3回は引越をしている。1875年が7.6キロくらい。歩いて1時間31分。1876年1月1日の日記には、 West 22nd St.,約2キロ、歩いて24分、1876年か、77年には、Great Johns St. 98メートル、歩いて1分。相馬先生が在籍した1875年から1877年は法学部のいわば移行期。入学者数が増え続け、相馬先生の1857年の学生数 は230人と過去最高だった。その後入学試験にラテン語等を含める案が浮上し、入学者数が25%激減。相馬先生の年は、どうもラテン語の試験のない最終年 で、駆け込み受験者が押し寄せた模様。それから、コロンビア大学法学部を立ち上げた著名な法学者で教育者のセオドア・ウィリアム・ドワイト(かの有名なイ エール大学学長ティモシー・ドワイトの孫)の教育メソッドにも変化があったよう。模擬法廷が廃止されてしまったのだ。その理由をドワイト先生は学生が口論 に関心を持たなくなった為と考えていたようだが、どうもその議論の判定を教授だけが行うようになり、学生を外してしまったことが、学生の関心を削ぐ結果に なったのではとロースクールの歴史書は示唆している。よくあることだが、ドワイト・メソッドで名高いドワイト先生がそれに気づかなかったのか。