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NY到着の記事

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2012年3月24日土曜日

葬儀業界誌『キャスケット』誌創刊号



これが葬儀業界誌『キャスケット』誌創刊号。1876

葬儀誌



今日は、22°。ようやく荷物を発送。部屋がガランとなると思いきや、まだいろいろ散乱している!これで帰れるのか不安。午前中は大学のArchivesで相馬先生時代の資料にあたる。午後は、ニューヨーク公共図書館で葬儀誌の続き。かなりやり残しそう。

NYPublic Library & Bryant Park



図書館も、隣のブライアント・パークもチューリップやヒヤシンスが満開!場所: Bryant Park






2012年3月18日日曜日

女性で活躍する葬儀業者





今日はNY公共図書館に再び新たな資料が到着し、写真撮影に励みました。1920年代になると、カラーの広告が登場します。23.25年は、女性で活躍する葬儀業者の紹介を表紙に写真入りで載せています。

2012年3月14日水曜日

相馬先生

バトラー図書館のArhiveでは、問合せにきめ細かく対応してもらい、効率的に仕事ができた。相馬先生の2年目の住所が判明。少なくとも3回は引越をしている。1875年が7.6キロくらい。歩いて1時間31分。1876年1月1日の日記には、 West 22nd St.,約2キロ、歩いて24分、1876年か、77年には、Great Johns St. 98メートル、歩いて1分。相馬先生が在籍した1875年から1877年は法学部のいわば移行期。入学者数が増え続け、相馬先生の1857年の学生数 は230人と過去最高だった。その後入学試験にラテン語等を含める案が浮上し、入学者数が25%激減。相馬先生の年は、どうもラテン語の試験のない最終年 で、駆け込み受験者が押し寄せた模様。それから、コロンビア大学法学部を立ち上げた著名な法学者で教育者のセオドア・ウィリアム・ドワイト(かの有名なイ エール大学学長ティモシー・ドワイトの孫)の教育メソッドにも変化があったよう。模擬法廷が廃止されてしまったのだ。その理由をドワイト先生は学生が口論 に関心を持たなくなった為と考えていたようだが、どうもその議論の判定を教授だけが行うようになり、学生を外してしまったことが、学生の関心を削ぐ結果に なったのではとロースクールの歴史書は示唆している。よくあることだが、ドワイト・メソッドで名高いドワイト先生がそれに気づかなかったのか。

2012年3月12日月曜日

相馬先生



NY 公共図書館では、葬儀誌の研究と平行して、相馬先生が住んでいたNYを調査。知識が豊富なライブラリアンに相談でき、どのように調べたらよいか有益なアド バイスを得た。当時彼が住んでいたイーストリヴァー近くを描いたプリントを見つけてくれた。彼の住所から数ブロック先の風景。何と、田舎ではないか。大学 までかなり離れており、どのように通ったのだろうか。そもそもなぜこの場所に決めたのか。彼が住んでいたであろう建物は、今度は保険会社が制作した地図に 当たれば分かる。次回調査予定。