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NY到着の記事

2012年3月14日水曜日

311地震



地震直後にこんなことがあったのですね!知りませんでした。
私は、地震直後安否を気遣うメールをアメリカ人友人たちから(ほとんど忘れかけていた人からも)もらいましたし、NYに着いてみると、見知らぬ人が寄って きて「あなた、日本人?地震で大変な目にあったわね。ご家族は大丈夫でしたか?』と言葉を掛けられ、突然でびっくりしたことを覚えています。その後NYで はどこに行ってもこのような言葉をかけられ、チャリティーコンサートなどがほんとうに数多く行われていました。1周年の祈りの会でも、「わたしたちニュー ヨーカーたちは、皆さんのことを忘れません!」と呼びかけていたが、われわれこそ、アメリカ人、ニューヨーカーたちが示してくれた「寄り添う気持ち」と 「行動力」とを忘れないようにしたい。

相馬先生

バトラー図書館のArhiveでは、問合せにきめ細かく対応してもらい、効率的に仕事ができた。相馬先生の2年目の住所が判明。少なくとも3回は引越をしている。1875年が7.6キロくらい。歩いて1時間31分。1876年1月1日の日記には、 West 22nd St.,約2キロ、歩いて24分、1876年か、77年には、Great Johns St. 98メートル、歩いて1分。相馬先生が在籍した1875年から1877年は法学部のいわば移行期。入学者数が増え続け、相馬先生の1857年の学生数 は230人と過去最高だった。その後入学試験にラテン語等を含める案が浮上し、入学者数が25%激減。相馬先生の年は、どうもラテン語の試験のない最終年 で、駆け込み受験者が押し寄せた模様。それから、コロンビア大学法学部を立ち上げた著名な法学者で教育者のセオドア・ウィリアム・ドワイト(かの有名なイ エール大学学長ティモシー・ドワイトの孫)の教育メソッドにも変化があったよう。模擬法廷が廃止されてしまったのだ。その理由をドワイト先生は学生が口論 に関心を持たなくなった為と考えていたようだが、どうもその議論の判定を教授だけが行うようになり、学生を外してしまったことが、学生の関心を削ぐ結果に なったのではとロースクールの歴史書は示唆している。よくあることだが、ドワイト・メソッドで名高いドワイト先生がそれに気づかなかったのか。

ルーズベルト島



今日は、22°ととても暖かい一日でした。3時くらいまで図書館のArchiveで相馬先生の調査、その後自転車でルーズベルト島まで。とても気持ちのよい一日でした。

自転車でルーズベルト島へ


 
 
午後遅くに自転車でイーストの端まで行き、Queensboro Bridgeを渡り、Queensへ、そこからまた端を渡ってルーズベルト島へ。大旅行。帰りは、トラムに自転車ごと乗って、マンハッタンに戻る。場所: Roosevelt island